|
誰からも愛されるというのは信じにくい。だが、ウィリーは例外だ。誰からも愛されてきただけでなく、誰からも信じられてきた。生き方はむしろ八方破れで、保守にくみしない人生はけっして穏やかなものとは言えない。そうであって、つねに無垢の人、微笑の人であり続けてきた。ウィリーというのはウィリー・ネルソンだ。ウィリーがいなかったら、アメリカの歌の世界、なかんずくカントリーはきっとかなめを欠いていた。
カントリーの故郷はテネシー州ナッシュビルだ。しかし、テキサス生れのウィリーの歌がそだったのは、テキサス州オースティンだ。かってのニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジのように、1970年代に新しい音楽の拠点となるのがオースティンだ。オースティンそだちの歌はレッドネック・ロック、あるいはレッドネック・カントリーとよばれたが、レッドネックというのは日焼けした首からきた、農民や労働者をいう俗語だ。
テキサスの地にレッドネック・カントリーの旗を立てたウィリーの名を決定的にしたのは1970年代半ばの2つのアルバム「赤毛のよそ者」(Red Headed
Stranger)と、そして「ウォンテッド!ザ・アウトロー」(Wanted! The
Outlaws)だった。よそ者(ストレンジャー)あるいは従わない者(アウトロー)という名乗りは、ウィリーのそれまで歌、それからの歌のありかをはっきりと指すものだったが、それは世に言うよそ者、あるいは従わない者というのとはちがう。
20世紀後半になってあらわになったのは、ジェファーソン以来のアメリカの理想のささえとなってきた酪農業がいまやその独自性をなくして、人びとの生活の根ではなくなっていったことだ。アメリカがそういう社会になったということ。ストレンジャーもしくはアウトローという名乗りにウィリーが込めたのは、そういった社会の偏ったありように対して、よそ者として、あるいは従わない者として名乗りでるということだったと思う。
母親は子どもを、カウボーイなんかに育ててはいけない。ギターなんか弾かせてはいけない。古いトラックなんか運転させてはいけない。子どもは医師とか弁護士とか、そういった人間に育てなくてはいけない。そうでないと、大人になっても家に身を落ち着かせる人間に、けっしてならない。そうでないと、たとえ愛する誰かと一緒にいても、つねに孤独な人間になる。母親よ、子供たちをカウボーイにしてはいけない。
「母親よ、子供たちをカウボーイにはするな」(Mamas Don't Let Your Babies Grow Up To Be
Cowboys)は、新しいカントリーの道路元標となった歌だ。エド・ブルースとパッツィ・ブルースがつくり、ウェイロン・ジェニングスとウィリーがヂュエットでうたってヒット・チャートを駆け続け、ヴェトナム戦争後のアメリカの心の空虚を突く魔法のような歌として、グラミー賞をさらったが、カウボーイに象徴されるのもおなじだ。いまや忘れられようとしている独立独歩の人の生き方の夢だ。
ホワイトカラーのアメリカではなく、ブルーカラーのアメリカ。ウィリーにとってのアメリカはそうだ。誰もがスーパースターと認め、もう還暦もちかい。だが生き方のスタイルは、少しも変わらない。リンカーンのような顎髭。お下げに編んだ髪に、赤いバンダナ。Tシャツにジーンズに、スニーカー。そして、ずっとおなじぼろぼろのギターを手放さない。それが、深くて太い、味わいのあるいい音を出す。
ウィリーは大不況時代のテキサスの息子だ。だだっぴろいテキサスの真ん中、四辺すべてが地平線の小さな町アボットの生まれだ。
アボットは旧街道だったメイン・ストリートが一本だけの、町というより集落で、町の中心といっても、大きな一本の樹のそばに小さな教会がぽつんと一つ、郵便局と雑貨屋を兼ねた床屋が一軒、そして農具置場ほどの、タウンホールと書かれた板の打ち付けられた古い平屋が一つ、いまもそれきりだ。
ダラスから南下する高速道路のインターステート35を途中で降りて、すぐそこの、人口わずか369人のその小さな町が、ウィリーの歌の原点だ。
生まれた家はもうないが、床屋は古い知り合いだ。白い小さな教会のある町を仕切るのは幼友達だ。メイン・ストリートの十字路の先、両側が牧草地の、牛の糞の匂いのする一本道に、小さな道路標識がある。ウィリー・ネルソン大通り。小さな町がウィリーに贈ったささやかな贈ものだ。
ニューヨークでもヒューストンでもなく、アボットが私のアメリカだ。ウィリーはそういうふうに語ったことがある。アメリカというのは、その人のホームタウンがその人自身のアメリカなのだ。ウィリーによると、アボットは、50年前よりずっと小さな町になった。過疎化したのだ。だが、アボットの空は今でもまだ澄んでいて、アボットから見る星々は地球にもっとも近くに見える。子どものときと変わらない。
今日の都会の子供たちはたった4、50年前には、銀河が子供たちにとって、どんなふうに見え、どんなにこころを掴んで放さぬ魅惑だったか、もう理解できないだろう。どこを旅していようと、たとえ十万人のコンサートのステージにいるときでさえ、いつもじぶんがアボットの空の下にいるというふうに感じてきた、とウィリーは言う。ウィリーの歌の芯にあるのはそうだ。どんなときも空の下に在るという感覚だ。
歌は一日の終わりの時間の楽しみだとすれば、一日のはじまりの時間は、考えるための時間だ。早朝の時間を、ウィリーは大切にしてきた。どこにいようと、朝日の昇ってくる時刻に、一人で走る。走りながら考える。その時刻には、あらゆるものがじつに明澄だ。朝の日の光が右肩に射しかかり、明るくなってゆく時間のなかに、大地の土くれが、暗い樹の枝々が、しっかりしたかたちをとりはじめる。
昇ってくる朝日を浴びて走っていると、きまって既視感につよくとらわれる。大不況の時代。毎朝毎朝、朝日が昇ってくる時刻にはもう、幼いウィリーは祖母と一緒に、妹のボビーも一緒に、摘んだ綿花でぎっしりの麻布の袋を背負って歩いていた。考えるというのは、忘れてはいけないことをきちんと思い出す、ということだ。それから、走ってきた道を戻る。朝の日の光が、こんどは左肩に射してくる。
貧しかったが、誰もが貧しい時代だった。農場で働き、学費は自分で稼いだ。綿摘みをした。トウモロコシの穫り入れをした。干し草の梱包をした。綿繰り機を動かした。将来は酪農家になろうと思っていた。アボットのウィリー・ネルソン大通りは、正しくは日焼け鼻くそ大通りなんだとウィリーは笑う。日焼け鼻くそ。その道をとおって、綿畑に綿摘みにゆく子どものウィリーがもらったあだ名だ。
大不況の年に、それまで暮らしたアーカンソー州を離れて、ウィリーの祖父母はアボットに移ってきた。本業は鍛冶屋だ。しかし祖父母はともに音楽をよくし、アーカンソーでは人びとに歌を教えていて、アボットにきてからは地域の学校でも教えるようになる。家には何がなくとも、歌の本がいっぱいあった。だが、ウィリーの父は小さな町がきらいだ。離婚して、幼いウィリーと妹のボビーをのこして、アボットを去っている。
誰もが働かねばならなかった。朝、起きられないと、祖母は子供たちの顔に氷の水を浴びせた。飛び起きた。
水曜の夜は礼拝集会だ。ウィリーの家は確固たるメソジスト派だったが、移動労働者のおおくはパブティスト派だった。かれらの歌は聴きものだった。最良の歌うたいは、しかし、戒律で楽器を禁じられているチャーチ・オブ・クライスト派だった。歌の秘密が合唱のうつくしさには隠されている。歌はハーモニーなのだ。
歌と楽器は祖父母に教わった。ウィリーはギター、ボビーはピアノだ。ウィリーが13歳、ボビーが11歳のときには、もう二人で組んで、週末は近くの町々を演奏してまわった。
二人は、いまも一緒だ。ウィリーのバンドのピアノは、いまでのほとんどボビーが弾いている。母に捧げて二人だけでつくったアルバム「ファミリー・バイブル」(Family
Bible)と「アイド・ラザー・ハヴ・ジーザス」(I'd Rather Have
Jesus)は、聴いたあと深い思いののこる人生の賛美歌集だ。
私の声は鼻にかかるとよく言われるが、ちがうとウィリーは言う。私は息を深く吸って吐いてうたう。じぶんの呼吸に耳を澄ますことだ。深く呼吸するというのは考えを深くし、精神といわれるものに近づく方法なんだ。じぶんが肯定できるものを見つけるのが歌だ。この人生を讚えられるようにする。歌は私にとってそのためのものだ。
歌をもって人びとのいるところへでかけてゆく。13歳のときからずっと移動する者としての生き方をつらぬいてきた。私は巡回する歌うたい、そしてギター弾きだ。ウィリーはじぶんについて、いつもそう答えてきた。歌を必要とする人びとのもとに歌をはこぶ者が歌うたいだ。答えではない。問いをはこぶのが歌だ。だが、テキサスのいまは過疎の農業の町に生まれたウィリーが、ミネソタの今は廃坑のの炭鉱の町に生まれたボブ・ディランと一緒に、二人でつくって二人でうたった新しい歌、「ハートランド」(Heartland)は、悲しい歌だ。・・・なんてことだ。アメリカの夢は縫い目がすっかり綻んで、中身が落っこちてしまった。なんてことだ。空には穴が開いている。あそこはいつだって神いた場所なのに。
1995年初夏、ウィリーは逮捕された。インターステート35号の路肩に車を停めて、たった一人で眠っていた。逮捕した警官はウィリーと知って驚いたが、インターステート上に、車を停めることはゆるされていない。しかも眠っていたために、麻薬の使用を疑われた。疑いはすぐに晴れたものの、どうしてそこに車を停めたまま眠ってしまったのか、ウィリーは答えなかった。そこは、小さな町アボットが一望できる場所だった。
長田 弘著・アメリカの歌(岩波新書)から引用
|