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1924年、アメリカ国内には、約2,500,000台のラジオ受信機があった。その5年前には、僅か5,000台余りの受信機が、極く一部の学者や、研究者たちによって、特別な研究のために所有されていたに過ぎなかったのだが、1920年代に入ってラジオ放送と受信機は、急速に人々の生活の中に入り込んでいった。1922年には、全米で約60,000ドルしかなかったラジオ受信機の売り上げは、1929年には約548,000ドルと、僅か7年間で約9倍以上と大幅に伸びている。これらラジオの購入者層は、殆ど全てが当時比較的裕福だった白人たちだった。このことは、それ以降のアメリカの音楽文化、特にカントリーミュージックの世界に大きな影響を与えることになるのだが、ラジオは急激にアメリカ国民の間に根を張った。
1920年代に入って、アメリカ国内では次々と放送局が開設された。隣接した放送局同士は、そのサーヴィス・エリアを拡大するために出力を競い合い、揚げ句の果てにはリスナーにとって、放送局相互間の電波干渉などによって、明瞭な受信が困難な結果となった。1922年にアメリカ国内で放送局として活動しているステーションは510局だった。その内の89局はいわゆる南部一帯に散在していた。南部の内で最も放送局が多かった州は、テキサス州の25局、最も少なかったのはミシシッピー州の1局だった。
当時のアメリカでは、電波の使用や、放送局の開設に関して、何の法的な規制がなかったことも放送局の乱立に拍車をかけ、いろいろな団体や個人が、気の向くままに勝手な周波数や出力で放送を始めていた。現在に比べれば、至って初歩的な放送装置で、しかも出力も弱かったとはいえ、放送それ自体が、それに携わる人々の手によって、早くも人為的な限界に向かいつつあった。
1922年、このような局面を打開するために、全米放送会議が「クリアー・チャンネル」の概念を打ち出した。これが、アメリカにおける電波放送に関する法律整備のきっかけとなり、1927年には電波法が、1934年には通信法が、いずれも議会を通過して、それぞれ「連邦放送委員会」と「連邦通信委員会」が組織されている。
「クリアー・チャンネル」は、具体的には終日放送を行うAM放送局(中波帯放送局)に対して適用され、特に夜間においては電波の伝搬が、その特性上良好になる結果、逆にリスナーにとって放送局同士の混信が問題になることから、特定の1周波数を1放送局に割り当てる、という方法で始められた。
全米放送会議に当初のプランでは50チャンネルだったものが、実際の運用は40チャンネルで始めれらたこの「クリアー・チャンネル」の思想と方策は、その後も引き継がれ、現在では11のチャンネルでAM放送局が、主としてアメリカの都市部を除いた地方のうち、約60パーセントの地域に電波を届けている。
放送業界は、放送関係の法規が一応整備されたことで、将来の指針が明確になったこともあり、大資本による商業化が急激に進んでゆく。統計上の記録によると、既に1930年にはアメリカ国内でじつに12,078,345軒の家庭がラジオ受信機を所有していたし、1938年には504局しかなかった終日放送のAM放送局は、1961年には1,919局に増え、現在では4,000を越える数のステーションが国内全域に散らばっている。
1920年代初頭、ラジオは誰の目から見ても、社会における偉大なる可能性と、多大な得影響力を秘めていた。1920年11月2日にペンシルバニア州イースト・ピッツバーグに、アメリカで始めての、すなわち世界初のレギュラー・ステーション「KDKA」が開局し、更に1924年5月12日には、商業ベースに乗った初の放送局「WEAF」がニューヨークで開局している。
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