4 ライマン・ホールの天使たち

ライマン公会堂
 「WSM」がダンス音楽のための器楽演奏曲を中心とした「WSMバーンダンス」の放送を開始し、それがやがて「グランド・オール・オープリー」となったころ、放送はいつもスタジオからの生放送だけだった。もちろん、当時は現在のような録音装置などはなく、スタジオ内にポツンと立てられた、古めかしい一本のカーボンマイクに向かって、出演者たちが順番に曲を奏でていた。既にその頃、毎週週末の放送のために集まってくる出演者たちの人数だけでも25人を越える大所帯となっていたこともあり、この「WSMバーンダンス」のために専用のスタジオが用意された。
 ナッシュビルのダウンタウンにあったナショナル生命損害保険株式会社のビル内に、大きな板ガラスで仕切られ、スタジオ内が見通せる「Bスタジオ」が新設されたのは、ちょうどアンクル・デイブ・メイコンが「WSMバーンダンス」に初めて出演した年というから1926年のことである。
 「WSM」の首脳人たちは、このスタジオを放送中にホールとして開放し、観客を入れることを考えつく。50人余りの収容人員しかなかったこのBスタジオに集まってくる観客は増え続け、更に「WSM」は放送局内に500人を収容できる「Cスタジオ」を新設したが、狭い放送局内のスタジオでは、到底そんな熱心な観客の要望に応えきれなくなった。「WSM」の廊下には、スタジオ内に入りきれなかった観客が溢れ、「グランド・オール・オープリー」はその場所を、スタジオ外の大人員を収容することのできる劇場に移すことになる。
 初めてオープリーが移った所は、ナッシュビルの市内の南部にあるヒルスボロ劇場だった。以前は映画館として使用されていたその劇場にも、熱心なオープリーのファンたちは殺到した。観客は相変わらず増え続け、オープリーはまた、その場所を移すことになる。
 オープリーが次に移った場所は、カンバーランド河を越えた、ナッシュビルの東に作られた大テントの中だった。フロアーには一面にシートが敷かれ、粗末な仮設の木製のベンチが用意された。「グランド・オール・オープリー」は、このテントの中で2年間を過ごすことになる。
 1936年6月、オープリーは新たに建設されたばかりの戦争記念館へと場所を移した。しかし、その当時としては比較的高価だったと思われる入場料の25セントが影響したのか、観客の動員数は思いの外伸びず、この間の毎回の平均入場者数は、多いときでも3,000人ほどに留まった。「WSM」のスタッフたちは、興業成績を上げるために、またもや新たな「オープリーの家」を探すことになる。
 1943年、「グランド・オール・オープリー」は、あの伝説の「ライマン公会堂」へとその場所を移した。今では、「カントリー・ミュージックの母なる聖堂」としてその名を知られるライマン公会堂は、1,891年、河船の船主だったトーマス・ライマンによってナッシュビルのダウンタウンに建てられた建物だった。
 このトム・ライマンは、伝道師に野次を飛ばすことだけが楽しみで教会の集会に参加するような男だったが、当時の有名な宗教家サム・ジョーンズに会って天啓を受け、彼のためにユニオン・ゴスペル大聖堂として、私財を投げ打ちこの建物を建造した。最初は種々の宗教的な集会などに利用されていたようだが、しばらくして、ナッシュビルの演芸場として、各種の娯楽を人々に提供する場となった。オープリーが移ってくるまで、ここではダンスやクラシック音楽、軽オペラやスーザーの行進曲、ウィーン・オーケストラなど、各種の芸能が催された。1892年には、戦争軍人会の開催のために2階席が増築され、収容人員も3,000人を超える大ホールとなった。この、木製の質素な椅子と、煉瓦の壁のライマン公会堂は、1943年から1974年までの31年間、「グランド・オール・オープリー」の我が家として、数えきれない幾多の大スターと、今なお唄い継がれている数多くの名曲を、次々と世に送り出した。

オープリーランド入口の看板

現在のオープリーハウス

 1968年の夏、「WSM」とナショナル生命損害保険株式会社の役員が、新しい「オープリー・ハウス」建造の計画を発表した。

 青写真によると、それはナッシュビルの町外れに、約400エーカーの広さを持つ遊園地「オープリー・ランド」と造り、その中に、「アメリカン・ミュージックの故郷」としてオープリー・ハウスを建て、そこに「グランド・オール・オープリー」を移そうというものだった。予定どおりに1969年に工事が着工され、1972年の春にはますオープリー・ランドが開園した。
 1974年3月16日。ライマン公会堂での最後の「グランド・オール・オープリー」の夜、ミニー・パールらの出演者たちは、かってその舞台で歌った数多くの大スターを偲びながら、トミー・ホワードの作によるグッバイ・ディア・オールド・ライマンという曲を涙ながらに歌ってその幕を閉じた。

 現在のオープリー・ハウスは、4,400人の観客を収容することのできる大ホールだ。東京のNHKホールの最大収容人員が4,010人であることを考えれば、オープリー・ハウスに行ったことのない人でも、それがいかに大きな劇場であるかが想像できるだろう。もちろん、それぞれ座席の大きさや間隔も、日本のものとは比べものにならないほどゆったりしている。

Flatt and Scruggs かってのライマン公会堂は今では博物館になっていて、名所巡りのバスに乗って観光客がやってくる。案内のおじさんが、観光客たちを舞台に上げ、音楽を流しながらタクトを振る。曲が終わったら、おじさんはにこやかに言う。「さぁ!いいですか?皆さんも故郷へ帰ったらグランド・オール・オープリーで歌った、そう言うんですよ!」と・・・・・。


 ロイ・エイカフ、ビル・モンロゥ、ハンク・ウィリアムス、アーネスト・タヴ、エディー・アーノルド、ジーン・オートリィ、エルヴィス・プレスリィ、カゥボーィ・コーパース、キティー・ウェルズ、パッティー・クライン、ロレッタ・リン、フラット・アンド・スクラッグス・・・・・

 数え上げれば、まだまだきりのないほど、多くの優れた素晴らしい、そして何よりも愛すべきアーティストたちが出番を待った舞台裏で、使い古されて擦り傷だらけの舞台の上で、そして、いつも溢れんばかりの観客が手を叩き、ステップを踏み鳴らした座席に座って目を閉じれば、その静けさの中にも、今日までのカントリー・ミュージックの歴史の中で培われた創造の息吹を、きっと感じることができるだろう。


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