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1925年10月5日、月曜日、テネシー州ナッシュビルで、一つの放送局が開局した。その日、午後7時に始まった公式放送の冒頭で、設立に当たっての出資会社である「ナショナル生命損害保険株式会社」の社長、C・A・クレイグは「この放送局が、社会と、人々の生活の向上のために貢献することを祈念する。」というメッセージを捧げた。この放送局が、全米でも最も古い放送局の一つとして、今なおその名を残す「WSM」の始まりである。「万人の生活を護る。」(We
Shield
Million)という会社のスローガンの頭文字をとって「WSM」と銘々されたこの放送局は、当時としては強力な1,000ワットの出力で、南部一帯にその電波を届けた。当時、殆どの放送局の出力が数百ワット足らずで、全米を通じてその85パーセントに当たる局は、「WSM」の半分程度の出力しかなかったという。
「WSM」は開局して間もない1,925年11月28日、若きアナウンサー、ジョージ・D・ヘィを起用して「WSMバーンダンス」という番組を開始した。自ら、ソレム・オールド・ジャッジ(老いたる厳粛な裁判官)と名乗るヘィの一声で始まったこの番組が、後々世界のミュージック・シーンにまで影響を与える番組になろうとは、このとき誰が想像し得ただろうか。
ヘィは2年後、この番組に、ふとしたインスピレーションから「グランド・オール・オープリー」という名を付けた。この番組こそ70年余年を過ぎた今でも、アメリカの白人文化の一つの象徴として、アメリカはおろか、世界中に熱狂的な数多くの支持者を持つ「オープリー」の始まりだった。
バーンダンスと言っても、似通ったものが日本にはないので、容易に想像することは困難だが、それは、農場の中にあるバーンと呼ばれる大きな家畜小屋に、地元の人々が集まり、フィドルやバンジョーなどの楽器を中心として演奏される音楽に合わせて、スクウェア・ダンス等を踊り歌う、娯楽の為の集まりを想像すればいい。
このバーンダンスという名称が、いつどこで使われ始めたのか、という公式の記録は見当たらないようだが、1923年が或いはそれ以前、テキサス州フォートワースの放送局「WBAP」が既に番組の中でバーンダンスを紹介しているし、そのころ、南部では最も進歩的かつ近代的な都会だったジョージア州アトランタで、1922年3月16日に開局した放送局「WSB」は、その年の9月9日に、フィドリン・ジョン・カーソンの演奏でバーンダンス・ミュージックを放送している。また更に、「WSM」が「WSMバーンダンス」を始める1年以上前、既にシカゴの放送局「WLS」が「WLSバーンダンス」というレギュラー番組を始めていた。
この「WLS」は、通信販売で有名な、シアーズ・アンド・ローバック社の出資で設立された放送局で、その名の由来も、会社のキャッチ・フレーズであった「世界で最も大規模な店舗」(World
Largest
Store)の頭文字をとって名付けられたことなどから、「WSM」と共通した部分が多いように思われがちだが、当時の大規模な商業的な放送局の設立が、いずれも似通った多くの共通点を持っていることを考えれば、それは特別なことではない。・・・一部の文献には、「WLS」は「世界で最も大きい放送局」(World
Largest
Station)の頭文字をとったと記述しているものもある。・・・
この「WLSバーンダンス」は、放送開始直後から数週間もたたないうちに、何百という数多くのリクエストが電話や電報で寄せられ、名称も「ナショナル・バーンダンス」と改められて、たちまちのうちに「WLS」の人気番組となり、商業的にも成功をおさめた。「WSM」による「WSMバーンダンス」の開始が、この「ナショナル・バーンダンス」の成功に刺激されたもので、そもそもバーンダンスの本場である南部において、自らの番組を始めようという気骨や、商売上の計算があったであろうことは容易に想像がつく。
「グランド・オール・オープリー」の名付け親ジョージ・D・ヘィは、インディアナ州のアッティカ生まれ、南部育ちの男だ。彼は、メンフィス・コマーシャル・アピールという新聞のコラムニストを振り出しに、1923年6月、同じメンフィスの放送局「WMC」に移り、アナウンサーとしての仕事を始めた。翌年、彼はシカゴに移り、「WLS」のチーフアナウンサーとして「WLSバーンダンス」の企画を助け、自らがその放送に携わった。その年、オールド・ジャッジ・ヘィは、ラジオ・ダイジェスト社が主催したアナウンサーの人気投票において、全米で最も人気のあるアナウンサーに選ばれている。
1925年10月9日、彼はナッシュビルにやって来た。設立されて間のない「WSM」のディレクター兼アナウンサーとして、その企画や立案に参画するためだった。やがてその年の11月28日、金曜日、午後8時、オールド・ジャッジ・ヘィの汽笛のように激しくバイタリッシュなその声は電波に乗って、カントリーミュージックの世界の幕開けを世の人々に告げることになる。
その日、ナショナル生命損害保険株式会社のビルの5回にあった「WSM」のスタジオで、テネシー州ラグァードからやって来た、白髪の老人フィドラー、アンクル・ジミー・トンプソンは、姪のエヴァ・トンプソン・ジョーンズをピアノに従え、番組の最初から最後まで延々と1時間、休むことなく次々とロングボウ・スタイルのフィドルを弾き続けたという。
1927年の秋、ある土曜日の夜、「WSM」ではNBCのネットワークを通じて「音楽鑑賞の時間」というクラシック番組が放送されていた。パーソナリティは当時人気のあったドクター・ウォルター・ダムロッシュで、この番組の後には「WSバーンダンス」が3時間の予定で控えていた。この時の出来事を、ヘィは1945年のパンフレットの中で次のように語っている。
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ダムロッシュ氏は、いつも彼の番組が終わる10分くらい前に、番組終了の合図を送ってきていました。それから私たちは、スタンバイしていた出演者と共に、「WSMバーンダンス」を始めるのです。我々の音楽は、ダムロッシュ氏のクラシックとは全く異なった音楽でした。しかし、それは仕方のないことだったのです。我々は、自分たちのやっている音楽こそアメリカそのものだと考えていましたし、それは丁度、素朴な手織りの布を思わせるような、温かみのある手作りのものだったのです。あと5分くらいで我々の番組が始まる午後8時になろうとしたときでした。Bスタジオのモニタースピーカーから、少し訛りのあるダムロッシュ氏の声が聞こえてきました。私はその時、彼の話を聞きながら、一つのアイデアを思いついたんです。その時、彼はこんなことを言っていました。
「クラシック音楽では写実的な奏法はとられない、と思われているようですが、今晩私はその考えを正さねばなりません。本日アイオワから招いた若き作曲家は、見事に蒸気機関車の突進する様子をそのまま音楽にしています。それでは、彼の最新の曲をお届けしましょう。」
彼のアナウンスに続いて、オーケストラが蒸気機関車の”シュッシュッ”という音を音楽にした曲を演奏し始めました。やがてその曲はゆっくりになり、機関車のエンジンが止まるようにダムロッシュ氏の番組も終わったのです。彼はいつものように番組終了の合図を送ってきました。ディレクターが出したオンエアーのサインを同時に、我々の「WSMバーンダンス」が始まりました。私はスタンバイしていた間に考えておいた台詞を喋ったのです。それは、つい先程のダムロッシュ氏の話に逆らうような内容ではありましたが、私なりに彼に対して十分な敬意を込めて、こんな感じで話し始めたのです。
「皆さん、クラシックの時間は終わりました。ダムロッシュ氏は先程、クラシックには現実の音はない、と言われましたが、我々がお届けするこれからの3時間は、現実以外の何ものでもありません。きっと素朴な皆さんにはよくお判り頂けることと思います。ダムロッシュ氏は番組の中で、突進してゆく蒸気機関車の音楽をお届け下さいましたが、我々も今日、一人の素晴らしい演奏家をお呼びしています。」
そのときの出演者は、ハーモニカのデフォード・ベィリーでした。私の紹介に続いて、彼は自分の家の近くを走っていた鉄道の唄った曲であるパン・アメリカン・ブルースをカントリー・ヴァージョンで演奏したのです。やがて曲が終わって私は、番組の紹介のために予め考えていたとおり、こんな感じ言ったのです。
「グランド・オペラを聞く時間はもう終わりました。只今から我々が”グランド・オール・オープリー”をお届け致します。」
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ヘィのこの「グランド・オペラ」にかけた「グランド・オール・オープリー」というアドリブの一言が、その時以降この番組の正式なタイトルとして使われるようになった。

Minnie Pearl trades jokes with Roy Acuff on
the stage at the Grand Ole Opry.
Her routines are famous because of the distinct style of
humor.
そもそもアパラチア山脈の中で、厳しい自然と対峙しながら生活していた地域の人々のために、細々とフィドルを中心として、主として唯一の娯楽であったであろうダンスのための音楽として演奏されていた初期のカントリー・ミュージックは、20世紀に入りレコートの大衆化と共に商業音楽へと変化していった。しかし、それでもまだ全米的に見るとマイナーな音楽という印象の否めなかったこの音楽は、レコードの次に現れた、このラジオという強力な怪物のようなマスメディアによって、それまでとは明らかに違う、商品としての音楽へと大きく変っていった。
南部一帯に強力な出力で放送されたグ「ランド・オール・オープリー」は、確かにヘィの言ったとおり、オペラより軽快なフィドルの音を聞きたがっていた当時の人々の共感と支持を得て、たちまちのうちに人気番組にのし上がった。人々は、「グランド・オール・オープリー」の聞ける「WSM」のクリアー・チャンネルにラジオのダイヤルを合わせた。ラジオのダイヤルを650キロヘルツに合わせれば、そこにはいつもオープリーの舞台が広がっていた。
そんな人々の心情は、決して当時のアメリカ国内や南部の世情と全く無関係ではなかったのだが、放送の人気の高まりは、直ちにコマーシャリズムの注目するところとなり、曲と曲の合間には日用品や食品、衣類や薬品などの商品のコマーシャルが、ヘィの叫ぶような声と共に次々と電波に乗せられた。
毎週週末、「WSM」は今でも「グランド・オール・オープリー」を電波に乗せて全米に向けて飛ばし続る。現在では750キロワットにパワーアップされた「WSM」の「グランド・オール・オープリー」は、アメリカの放送業界で最も長く、それは恐らく世界中でも類を見ない長寿番組として、これからもその歴史に新しいページを加え続けることになるだろう。
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